群馬中世史研究会8月例会
2015年8月27日 学校・勉強本日は、前橋国際大学野口研究室にて、群馬中世史研究会の8月例会でした。例会開始前に、学部時代のアルバイト且つサークルの後輩であるYと野口研究室で談笑。どうやら群馬県警に採用が決まったらしく、就職が決まる前から、大人の洗礼を浴びておりました笑
ともあれ、久しぶりの再開で、なんだか嬉しそうでした。笑
今回は例会の後に飲み会をしましょう、ということで、恒例の(といっても二回目w)「お好みダイニングなな」にて納涼会という形になりましょうか、飲み会となりました。
楽しい時間はあっという間でありまして、気づけば終電の時間。次回は9月末になります。少しづつメンバーを増やしていこうかという魂胆であります。笑
第53回サマーセミナー③
2015年8月26日 学校・勉強さて、サマーセミナーも三日目に突入しました。
昨日の三次会ではどうやら騒ぎすぎたらしく、頭痛が止まりません...
気を取り直して。
本日はまず、国指定史跡「阿津賀志山防塁」に行きました。『吾妻鏡』にも見える、奥州藤原氏が築いた防御施設です。
予定では、史跡指定地3箇所を廻るはずだったのですが、あいにくの雨で、午後の文書見学に備えて濡れないようにとの配慮から、2箇所のみとなりました(内1箇所はバスの窓からの見学)。因みに、バスから降りて見学した箇所は「下二重堀地区」で、阿津賀志山防塁の中でも、最も残りが良い場所です。バスから見学したのは、「国道4号北側地区」で、この他に「防塁始点地区」も行く予定だったので、残念でありました。
続いて、白石市中央公民館に移動し、白石市周辺で昼食を。
「温麺(うーめん)」が有名だということなので、さっそくうーめんが食べられる食堂へ。見た目、食感はひやむぎに近いなぁと思いました。長さは短い感じです。とても美味しかったです(笑)
その後、白石市中央公民館に戻り、伊達家重臣として知られた遠藤家・長島家の文書を見学しました。
遠藤家・中島家文書のほとんどを見せていただけた、ということで、所蔵者の方には感謝してもしきれないほどであります。
個人的には、「建内記」永享2年2月条断簡とその紙背文書であります。
この断簡は、『大日本古記録』の『建内記』に収録されていないもので、満済の消息の写しが記載されています。また、二月廿二日条では、室町殿足利義教の書札礼をどのようにしようか、ということについての公卿層のやりとりが記述されており、豊富な情報を提供しております。
紙背文書には、満済自筆書状が書かれており、万小路時房が日記を書くのに自身のもとへ届いた消息等を翻して使用していたことがわかります。満済の自筆はお世辞にも上手なものとは言えませんが、なかなか味のある字を書くものだということを知りました(笑)結構大きい字なんですよ(笑)
そして、あっという間に時間が来てしまい、解散となります。
今回、サマーセミナーは初参加ということで、勝手が分からず右往左往するかと思いきや、実行委員会の皆様のおかげで、とても楽しい時間を過ごすことができました。
また、全国各地から自分の年に近い方々も集まってきており、交流を深めるという意味合いもこのサマーセミナーは有しております。山田邦明先生も仰っておりましたが、学会でもなく、事務局も有さないこの会が、今年で53回を迎え、無事に終わりました。このような会は、非常に珍しいということだそうです。素晴らしい出会いに感謝して、次回のサマーセミナーにも参加したいと思いました(笑)
因みに、次回のサマーセミナーは、北海道にて開催の予定です(笑)
第53回中世史サマーセミナー②
2015年8月25日 学校・勉強本日は、サマーセミナー2日目ということで、
二日酔いの重い足取りを引きずりながら(笑)、巡検のスタートです。
まず、バスで天王寺に移動しました。同寺では、通常は公開していない「経筒」(国指定重要文化財)を特別に拝観させていただきました。特別のご配慮に感謝致します。また、境内に板碑三基(それぞれに、嘉元2年〈1304〉・元亨4年〈1324〉・喜暦4年〈1329〉の銘あり)があり、それも見学させていただきました。
続いて、医王寺に移動し、同寺にある板碑を見学しました。同寺は、平安時代末、信夫庄司佐藤氏一族の菩提寺とされたことでも知られています。参道を進んで薬師堂まで行くと、佐藤基治夫妻をはじめ、子継信・忠信の碑などと伝えられる佐藤氏一族の板碑がまとまって安置されておりました。全部で64基あるそうです。有紀年銘板碑だけでも19基を数え、正和2年(1313)・弘長2年(1262)・建武2年(1335)などといいったものがありました。
福島県中通り地方に多く所在する成形板碑の形態は、(A)頭部を三角形に加工・二条線を施した上で全面を額状に造り出したものと、(B)頭部をドーム状に加工し全面を額状に造り出したものとに大きく分けられるそうです(三宅宗議「南奥の板碑 概要」『中世奥羽と板碑の世界』高志書院、2001年)。このうち(A)の形態については、遠く大分県国東半島に所在する板碑に類似する、という指摘に非常に興味を持ちました。天王寺境内の板碑については、頭部が欠けており、形態については不明でした。対して、医王寺の板碑は、(A)形態のものが多く確認できました。
続いて、保原歴史文化資料館に移動し、学芸員の方の解説つきの見学をさせていただきました。宮脇廃寺出土遺物、霊山寺棟礼、中世文書17点、旧亀岡家住宅それぞれを見学しました。なかでも、中世文書17点については、特別のご配慮を賜り、展示ケースから出していただいて、見学することができました。
続いて、福島県指定史跡の梁川城を見学しました。カギ型の土塁が立派に残っており、その上に登って写真を撮ったりと、中世史研究者の方々はやはり「登る」習性があるようです。(笑)このカギ型土塁のあった場所は、伊達氏時代の大手口であったと考えられているそうです。その後本丸跡に移動し、庭園「心字の池」も見学しました。
続いて、梁川八幡神社に移動し、見学をしました。本殿の方が、特別参拝できるということで、500円を支払い、参拝してまいりました。
続いて、福島県指定史跡の桑折(こおり)西山城を「攻め」ました(笑)
サマーセミナーと言えば「山城」ということですね。(笑)
室町期に機能したと言われている山城で、伊達氏時代から使用されていたようです。『塵芥集』に見える「西山の橋」と比定される橋を渡り、登城しました。大手門跡の右手側を登り、二の丸、本丸を「攻め」ました。その後、再び大手門跡前に戻り、左手を登って、西館、中館へ行きました。中館の部分に坂虎口があり、そこを登ると、なかなかの眺望でございました。
本日の巡検はここまででありました。
疲れた。そう、非常に疲れたんです。
宿に戻って、若干時間があったので、宿の近くにある飯坂温泉の公共浴場へと行った元気な方もいらっしゃいましたが、僕はひたすらに食事の時間まで寝ておりました(笑)まだまだです(笑)
その後は、昨日と同じく、懇親会(食事)があって、ビール講という二次会、そして各部屋で三次会というハードスケジュール。。。
明日は、文書見学なので、お酒はほどほどに、という柳原先生の忠告はどこへやら。。。(笑)
第53回中世史サマーセミナー①
2015年8月24日 学校・勉強
今回のサマーセミナーは、「伊達なサマーセミナー」ということで
福島県は南奥羽で開催されました。
福島県でのサマーセミナー自体は初めてではないのですが、東日本大震災後のサマーセミナーが東北で開催されたのは今回が初めて、ということで、なかなか感慨深いものがある、と柳原先生がおっしゃっておりました。
宿泊場所は、飯坂温泉の伊勢屋です。
とっても立派な旅館で、温泉宿という雰囲気に浸っております(笑)
初日の今日は、伊勢屋さんにてシンポジウムが開催されました。
構成は、大報告が三本、小報告が二本で、その後討論という形です。
先ず、杉山一弥氏が「室町幕府・鎌倉府と陸奥伊達氏―政宗~尚宗期の研究―」という題目で報告されました。これまでの伊達氏の研究は、主に個別自治体史に依拠して行われてきている。故に、中央権力との関わり合いも視野に入れながら、当該期伊達氏の範囲を念頭においた上で研究を進める必要がある、との指摘をされておりました。
続いて、泉田邦彦氏が「奥州岩城氏の領域支配構造と「洞」」という題目での報告でした。従来の「洞(うつろ)」論が、北関東の事例を出発点にして行われており、奥羽での「洞」の事例研究はなされていない、という指摘がありました。本報告では、奥州岩城氏を事例に、内訌を克服していく過程で「洞」を構成原理とする地域秩序の再編が行われた、と見ることを提案しておられます。
続いて、山田将之氏が「南奥の中人秩序と豊臣政権の惣無事政策―芦名氏の動向を焦点として―」という題目で報告されました。南奥で展開されていた独自の地域秩序維持システムとして、「中人」を媒介とした紛争解決手段が存在しておりました。これが、豊臣政権発足とそれに続く「惣無事」政策という外圧との関わりで、どのように変質・崩壊していったのかを論点としながら分析を加えておりました。
続いて小報告では、新名一仁氏が「中世後期九州守護勢力と地域秩序」という題目で報告されました。小報告では、主に西日本の事例・研究を取り上げることで、今回の大報告との比較を考察することが目的だそうです。新名氏の報告では、主に「守護」に的を絞って、彼らによる地域秩序編成の動きを捉えて報告されています。
続いて、村井良介氏が「戦国期毛利・大友分国における洞と「家中」―東国との比較のために―」という題目で報告されました。村井氏によれば、西日本にも「洞」という言葉が史料上確認できるものの、その数は非常に少数に限られる。そこで、毛利氏や大友氏関係史料に見える「家中」を見ることによって新しい知見が得られないか、という問題意識をもっておられました。
このように、盛りだくさんの報告が並んでおり、ついて行くのが精一杯でございました(笑)
ただ、討論の段階で、呉座氏の「中人秩序」成立・存続の条件に関する質問があり、非常に興味深いものでした。
シンポジウムの後は、大宴会場にて懇親会が行われました。その後「ビール講」という二次会が開催されました。さらにさらに、その後は有志による各部屋での三次会が行なわれる。というなんとも初日から肝臓フル回転コースでございました。(笑)
明日は山城巡検なので、心してかからねば...(笑)
福島県は南奥羽で開催されました。
福島県でのサマーセミナー自体は初めてではないのですが、東日本大震災後のサマーセミナーが東北で開催されたのは今回が初めて、ということで、なかなか感慨深いものがある、と柳原先生がおっしゃっておりました。
宿泊場所は、飯坂温泉の伊勢屋です。
とっても立派な旅館で、温泉宿という雰囲気に浸っております(笑)
初日の今日は、伊勢屋さんにてシンポジウムが開催されました。
構成は、大報告が三本、小報告が二本で、その後討論という形です。
先ず、杉山一弥氏が「室町幕府・鎌倉府と陸奥伊達氏―政宗~尚宗期の研究―」という題目で報告されました。これまでの伊達氏の研究は、主に個別自治体史に依拠して行われてきている。故に、中央権力との関わり合いも視野に入れながら、当該期伊達氏の範囲を念頭においた上で研究を進める必要がある、との指摘をされておりました。
続いて、泉田邦彦氏が「奥州岩城氏の領域支配構造と「洞」」という題目での報告でした。従来の「洞(うつろ)」論が、北関東の事例を出発点にして行われており、奥羽での「洞」の事例研究はなされていない、という指摘がありました。本報告では、奥州岩城氏を事例に、内訌を克服していく過程で「洞」を構成原理とする地域秩序の再編が行われた、と見ることを提案しておられます。
続いて、山田将之氏が「南奥の中人秩序と豊臣政権の惣無事政策―芦名氏の動向を焦点として―」という題目で報告されました。南奥で展開されていた独自の地域秩序維持システムとして、「中人」を媒介とした紛争解決手段が存在しておりました。これが、豊臣政権発足とそれに続く「惣無事」政策という外圧との関わりで、どのように変質・崩壊していったのかを論点としながら分析を加えておりました。
続いて小報告では、新名一仁氏が「中世後期九州守護勢力と地域秩序」という題目で報告されました。小報告では、主に西日本の事例・研究を取り上げることで、今回の大報告との比較を考察することが目的だそうです。新名氏の報告では、主に「守護」に的を絞って、彼らによる地域秩序編成の動きを捉えて報告されています。
続いて、村井良介氏が「戦国期毛利・大友分国における洞と「家中」―東国との比較のために―」という題目で報告されました。村井氏によれば、西日本にも「洞」という言葉が史料上確認できるものの、その数は非常に少数に限られる。そこで、毛利氏や大友氏関係史料に見える「家中」を見ることによって新しい知見が得られないか、という問題意識をもっておられました。
このように、盛りだくさんの報告が並んでおり、ついて行くのが精一杯でございました(笑)
ただ、討論の段階で、呉座氏の「中人秩序」成立・存続の条件に関する質問があり、非常に興味深いものでした。
シンポジウムの後は、大宴会場にて懇親会が行われました。その後「ビール講」という二次会が開催されました。さらにさらに、その後は有志による各部屋での三次会が行なわれる。というなんとも初日から肝臓フル回転コースでございました。(笑)
明日は山城巡検なので、心してかからねば...(笑)
今日は8月の運営員会です。
大会関係のお話なので、決定事項以外の一切の口外禁止。
それはその通りですが。(笑)
僕なんかが口を挟める状況ではない感じでしたが。
大会関係の勉強会もあるとのことで、こういう委員会に顔を出しているだけでも、勉強になると思っています。
とりあえず、来月の委員会はないので、
次の委員会には、具体的な話→勉強会へ、ということになりそうです。
自身の研究も、だいぶ手が動いていな状況で、ほかのことにも目が言っている感じでちょっと怒られそうですが、頑張ります。
久しぶりに大学へ行きました。
院生室の鍵が開いていなかったので守衛さんの所へ。
初めて鍵を借りるというミッションに成功。(笑)
さすがに夏休みともなると、他の院生さんは来ないのだろうか、と思っていたら、M1のみなさんに多く会いました(笑)
東洋古代史報告があるとかで、2人ほどいらしていたのですが、
ほかにもちらほら、夏休み前以来の顔合わせでしたね(笑)
場所を変えると勉強が捗る、ということがわかった次第でございます(笑)
今日もまた、DVDを観ました。
本日は「食堂かたつむり」です。
院生室の鍵が開いていなかったので守衛さんの所へ。
初めて鍵を借りるというミッションに成功。(笑)
さすがに夏休みともなると、他の院生さんは来ないのだろうか、と思っていたら、M1のみなさんに多く会いました(笑)
東洋古代史報告があるとかで、2人ほどいらしていたのですが、
ほかにもちらほら、夏休み前以来の顔合わせでしたね(笑)
場所を変えると勉強が捗る、ということがわかった次第でございます(笑)
今日もまた、DVDを観ました。
本日は「食堂かたつむり」です。
古代史勉強会(2回目)
2015年8月10日 学校・勉強今日は古代史勉強会です。2回目だけど(笑)
わたくしは専門が日本中世史なので、古代史のゼミについて行くのがやっとなのです(笑)
だから、みなさんの頭脳をお借りして、吉川真司さんの論文を理解するために、主に『西宮記』を読んでいる次第でございます。
今回は、南所申文です。
南所はご飯を食べるところでもあるので、そんな記述が儀式書のなかから伺われます。しかしですね、食事もちょっとした儀式になってしまうなんて、ちょっと現代的性格からすると信じられないでしょうかねぇ。
もっとも、各国首脳が集まって会談する際も、食事をするわけでありまして、政治・外交と食事ってのは、意外にずっとずーーーっと昔から行われてきたんでしょうか。
なんて、根拠もないことを言い出すと、怒られてしまいそうなのでヤメます。
とにかく、読みにくい。こんなに難解な史料だったとは。。。
全く知らなかったわけではないのですが、やはり儀式書は儀式書。実例に即しながら理解するのが効率いいんじゃないか、とも思えてきました。とはいっても『小右記』なども一緒に読んでいくとなると、いよいよ本格的に古代史に転攻しそうなのでしませんが(笑)
早稲田大学が工事中のため、近くのコーヒー(チェーン)店で行ったのもまたシュールでしたね。(笑)
大学生が三人、丸テーブル2つを抱えて、史料の読み会をしているんですもの(笑)
しかし、さすがに勉強になります。つき合ってくださるお二人には感謝です。
今日は一日家で論文を読み、史料をメモし、上京する、というおきまりの日曜日パタ―ンでした。
最近ふと思ったんですが、
僕自身がやっている研究は、いったい何の役にたつのだろう。ということ。
歴史学が言わんとするところは、いわゆる社会科学的な実験データ(即時的で再現可能なもの)とは異なり、時間が不可逆的である限りは再現不可能な過去の証明です。
すなわち、何が言いたいかといいますと、
歴史学の成果は全て「仮説」なのです。
現在の有力な研究は、有力な仮説に過ぎません。定説となっている現今の素晴らしい研究成果であっても、20年もすればそのほとんどは成り立たなくなってしまうでしょう。
歴史学、というと、あまり変化のない分野だと思われがちですが、実は現在社会のような秒を争う変化ではないにしても、バンバン変わっていくものなのです。それもそのはず、主に人間の過去を扱うわけですから、過ぎ去った過去の一部分の解明が済めば、連続して違う部分の解明が行われる。構造としての歴史は、その個々の成果の上に成り立つわけだから、個々の成果それぞれが新しくなれば、当然それらの積み重なりである、構造理解も変容せざるを得ないんです。
とまあ、訳の若わんことを並べ立てているわけですが、つまるところ、どうせ成り立たなくなってしまうだろう研究を何故一生懸命にやるんでしょか。
気持ちのスランプですね(笑) 手は動き続けてますが。
余計なこと考えないで、今はとにかく突き進むのが吉。そんなムズカシイことは後で考えなさい。一人前になってからね。
という小言が飛んできそうです。(笑)
眼前の目標はとにかく研究論文を出すことですかね。出せもしないのに、言い訳じみた事をいうのはちょっとナンセンスな気がしてきましたな(笑)
早稲田大学での勉強会でした。主催者ぼく。笑
吉川真司「申文刺文考」を読もう、あまりにも難しいのでみんなでやろう、的な感じで集まって勉強しています。今回が第一回目。笑
主に『西宮記』を使っているのですが、適宜『北山抄』『江家次第』などの儀式書を参看しながら、読み進める。僕は専攻が中世史なので、みなさんの知恵を借りながらなんとか頑張っておる次第でございます。
とにかく、一字一字を大切にしよう、少しでも史料に触れ続けよう、という趣旨でございますので、時間がかかり、なかなか進みませんが、楽しいです。次は来週ですね
それから、
久しぶりに早稲田大学来たんですが、
広い。
ただひたすらに広い。
なんだこの格差は。図書館の規模といい、キャンパスの広大さといい、学生のチャラ度といい。
最後のはどうでもいいですが、早稲田大学よかですね。
教え子には早稲田大学をオススメしよう。笑
修論中間報告ならびに構想報告会
2015年7月31日 学校・勉強本日は僕が所属する大学院の修論中間報告ならびに構想報告会でした。
報告者はそれぞれM2の先輩とM1の同期です。
両者ともに戦国期の研究ををしているのですが、内容はほとんど違うといっても言い過ぎではないでしょう(笑)
まあ、研究分野がこれだけ細分化すれば当たり前の話かもしれませんが、ぜんぜん知らない人からしたら、「日本史の研究をしております」といえば、日本列島に関わる歴史全般をそれなりには知っていると思いますよね。
ところがどっこい、僕もそうですが、「それなりに」知っているだけで、ほとんど知らないといっても過言ではないでしょうな(笑)
特に、史料が読めない時代ないし地域の歴史については、本来は言及すらしたくありませんよ、本心ではね。
ただ、歴史学が狭いところ、高いところで留まっているのはいけない、とか、歴史教育との連関が肝要、とか、耳にタコができるくらい言われて久しいですが、それだけ「同じこと」が超時代的に叫ばれ続けているという事実に目を向ける必要があると、個人的には思うわけですね。はい。(笑)
ということで、今回の報告は史料を提示して、そこから言えることを厳密に精査していくことの重要さを身にしみて考えさせられました。
終了後は、毎度おなじみ、飲み会ということで、先輩方も何人かいらっしゃり、いろいろなお話をすることができました。よかったよかった(笑)
先週あたりからなんとなくそーだったんですが、
やはり授業がないと研究がはかどります。
本日は午前中の内に論文一本読めましたから、帰宅してから家の事をやりながら史料を読み込む事ができました。
大日本史料のめくりも始めなければならないので、ちょっと忙しい感じですが、溜まりに溜まった授業の復習・整理も同時進行で。
やる事は山積しておりますが、限られた時間をめいいっぱい使う事を目標にして、人生の最後の一歩手前の夏休みを過ごしたいなと。笑
このあとは仕事になるわけですし、夢の40ないし50日連休は定年後までお預けですものね。笑
がんばりましょ。
学内の自主研究会で「乱読会」というのに参加しておるのですが、議論の題材は
この日記でも時折メモしている I.ウォーラーステイン『脱=社会科学―19世紀パラダイムの限界―』を扱ってます。
今回の範囲は第二部「発展の概念」の総括と議論ということで、
先輩の作成したレジュメは少し分量が多くなっています(笑)
中でも、昨日の日記でもメモしてあった第6章「ミュルダールの遺産―ジレンマとしての人種差別と低開発―」が一番刺激的であったという見解を支持してもらえました。
ウォーラーステインは第2部で、従来アプリオリな概念として議論されてきた「発展」というものの見直しを図っております。「発展」概念の検討とは、そもそも発展なるものの存在が自明されていることへの疑問、もっといえば、政治的な中・長期的目標として掲げられた「社会の発展」そのものへの挑戦であります。
産業革命というものが本来想定していた部分をこえて議論されるようになったところから、「発展」という概念は付きまとっています。いったい何が発展して、何が要求され、どのように描かれるのか。「自明性の殻を破る」のは、簡単ではないことを痛感いたしました。
私は日本中世史を勉強しているわけでありますが、視野狭窄的になってはいけないと常々思っております。僕自身、今を生きる人間ですから、自分が生きている時代の自明性を自覚するのはほぼ不可能に等しい。そもそも自明性は、内在化していることに一つの意味がある、とするならば、甘んじて受け入れることもまた、一つの手段であると考えております。
とりあえず、色々な研究会や勉強会に顔を出して、少しでも多くの知的刺激を受け続けたい。2年というのは、自分が成長を実感するにはあまりに短い期間なのでしょう。
この日記でも時折メモしている I.ウォーラーステイン『脱=社会科学―19世紀パラダイムの限界―』を扱ってます。
今回の範囲は第二部「発展の概念」の総括と議論ということで、
先輩の作成したレジュメは少し分量が多くなっています(笑)
中でも、昨日の日記でもメモしてあった第6章「ミュルダールの遺産―ジレンマとしての人種差別と低開発―」が一番刺激的であったという見解を支持してもらえました。
ウォーラーステインは第2部で、従来アプリオリな概念として議論されてきた「発展」というものの見直しを図っております。「発展」概念の検討とは、そもそも発展なるものの存在が自明されていることへの疑問、もっといえば、政治的な中・長期的目標として掲げられた「社会の発展」そのものへの挑戦であります。
産業革命というものが本来想定していた部分をこえて議論されるようになったところから、「発展」という概念は付きまとっています。いったい何が発展して、何が要求され、どのように描かれるのか。「自明性の殻を破る」のは、簡単ではないことを痛感いたしました。
私は日本中世史を勉強しているわけでありますが、視野狭窄的になってはいけないと常々思っております。僕自身、今を生きる人間ですから、自分が生きている時代の自明性を自覚するのはほぼ不可能に等しい。そもそも自明性は、内在化していることに一つの意味がある、とするならば、甘んじて受け入れることもまた、一つの手段であると考えております。
とりあえず、色々な研究会や勉強会に顔を出して、少しでも多くの知的刺激を受け続けたい。2年というのは、自分が成長を実感するにはあまりに短い期間なのでしょう。