14時から学校で研究会のため、午前中に東京に戻ることに。
このGWは、割と楽しめたんじゃないかと。
しかし、やることは山積しています。
とにかく、今は目の前にある授業の準備でしょうか。

さて、今年はいえなが先生がサバティカルということで、
授業の開講はありません。
しかし、研究報告会は例年通り開催するということで、
今日はその研究会でした。
例年通り、M1の卒論報告会です。
ま、自己紹介みたいなものですね。こんなことを卒論でやりました。修論ではこんなことを遣ろうと思ってます。的な。
今年は女の子が2人、M1として入ってきました。
しかし、そのうちの1人が昨日胃腸炎で倒れ、急遽入院という事態に。
大丈夫かしら。。。
ストレス性だったとしたら、新生活の変化に体が追い付かなかったのでしょうか。

さて、今日の子は戦国期の佐野をフィールドにしています。
戦国期佐野で活躍した天徳寺宝衍という人物について卒論を書いたようです。
従来は佐野での活躍を軸に、織豊政権期において信長・秀吉の使者として活動する様子を「出奔」とし、再び佐野に戻ってくる様子を描く研究が主だったようです。
織豊政権期における東国政策の重要な役割を与えられていたことから、従来の研究でも言及されることが多かったようです。
それについて、京都での人脈を活かして織豊政権に参画する姿を動態的に描き直したようで、そういった研究も従来はありましたが、その点をもっと前面に押し出していこう、というものでした。

京都と地域を行き来する、宝衍のような存在については、従来から注目されてきたところでありますが、
戦国期の研究者は、基本的に文書を発給する主体をメインの分析対象としますので、京都の日記史料はあまり本格的に読まれていないのが現状です。
しかしながら、室町前期よりもむしろ、室町後期~戦国期の公家社会における日記史料の残存情況は良く、公家の経済構造や文化などは多く説かれてきたところであります。
彼らの人的ネットワークが、地域社会において一定の求心力を有したことについては、最近研究が進んできた分野であります。
京都の文化サロンを通じて、現在で言えばハイカルチャーを身に付けたような存在が京都でも地域社会でも一定の影響力を有したことは、当時の公家社会の開く連歌会や蹴鞠会などが、単なる娯楽として愉しまれていたことを意味しません。

そのような文化活動を通じた一定の人脈形成が、当時の政権において有用な人物を「見つける」ための場として機能したことを意味するのではないでしょうか。
はっきりいって、戦国期における公家の活動を積極的に分析するのは近年の潮流になります。これからおもしろいことが分かってきそうで、楽しみですね。

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