タイトルを見ると、ちょっとあれな感じはしますけれども、
これは群馬県伊勢崎市にある国指定史跡「女堀」のことを指します。
現在は史跡整備が進み、赤堀の菖蒲園として地元の人たちに限らず親しまれ、五月あたりにはきれいな菖蒲の花を咲かせます。
じつは、わたし、今週末に群馬県に合宿に訪れるおおさか市大の中世史ゼミでこれについてのレジュメを作成しなければならなくて。
はい、すっかり作らないものだと思って怠けてたんですね。
今日の17時くらいにあわてて参考文献を探し回ったんですが、うちの大学にはない。
あああああ、と思って、法政大学まで借りに行きました。
困った。困った。
しかし、改めて勉強してみるとけっこう面白いもので。
史跡「女堀」とは、その名称からいくつかの伝説があります(女帝推古天皇が造った、北条政子が関わっているetc.)。
しかし、実質は群馬県にある淵名荘という荘園の再開発のため、中央政界のお墨付きで推進された巨大土木工事の計画(未完)だったということが研究で明らかにされています。
計画であり、未完で終わってしまったのですが、その全長はなんと13㎞にも及ぶものでありまして、赤城山麓に広がる大間々扇状地を東西に貫く用水路を造るものだったようです。
壮大ですね。
いまだって、それだけの工事をやろうとすれば、けっこうな期間と人員が必要となります。
ましてや、昔のひとたちはモッコと鋤・鍬、という人力作業。
足元は掘れば掘るほど湧き水が出てきて、ぬかるみ状態です。足はくるぶしの辺りまで埋まり、思うように作業ができない箇所もあったことでしょう。
そんな、昔の人の苦悩が思い起こされると同時に、中央政界の政治情勢を背景に、地元に有力な勢力を拡大していた豪族たちの「指導力」?なるものが想像されます。
果たして、どんな「思惑」があって、それぞれの人々はこの用水路を造ったのでありましょうか。
多くの謎につつまれたこの史跡は、今なお、私達の目の前に広がり、なにかを訴えかけているようにも思えます。
はい、以上の内容を学問的にまとめ、最新の発掘調査も織り込みながら、レジュメを作成するのです。
え?締め切り?
うん、明日ですね。いますぐにでも取り掛かります。
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