すっかり忘れてました、今日の授業は休講だったんです。笑
ということで、今日は法政大学に籠りました。
なかなかの収穫笑
ところで、
最近なかなか考えることが多いのですが、歴史とは変わらないものであるという理解が一般にはあるらしく、教科書改訂とかで歴史の教科書に変更があることにすごく違和感を示す人がいるようなのです。そのことを批判するつもりは毛頭ないのです。
ですが、歴史とは変わらない、ということについてなんらの疑問を持たないという考え方もあるのか、と少々驚いております。
歴史とは事実の集積です。これだけ見たら、過去に生起した事実そのものは変わらないじゃないか、という意見もありえます。その通りでありまして、昨日の夕食がハンバーグだったのに、スパゲッティに変わることはありません。歴史学で扱うのはもっとずっと昔の時代ですから、そういう類の事実認識での変更はあり得ますが、それで歴史の文脈が大きく変わることはそうそうあり得ません。
私たちの特徴は、事実とは事実単体で存在するとは考えていない点です。どういうことかというと、事実が生起するには事情があるからです。それは偶然にしろ、必然にしろ、事実の背景事情を鑑みるに、事実そのものの認識が大きく変わる、ということです。昨日の夕食はハンバーグだったわけですが、ハンバーグを食べたかったからハンバーグだったのか、洋食を食べたかったからハンバーグだったのか、別にハンバーグ食べたくなかったけどハンバーグだったのか、どれを取っても昨日がハンバーグだったことの評価が変わります。この部分の変化で、従来の歴史像は大変に変化する余地を持っています。事実の集積としての歴史はあまり変わる余地はない、新資料が見つかれば話は別ですね。歴史の可変性は、歴史家の描く歴史像の可変性です。
こうすると、歴史の物語り論復権、といきそうですが、まぁ歴史学という学問は、それほど脅かされやすいものではないですね。
立脚点が、事実の集積である点、強みは消えません。
うん、やっぱりこういうことを考えてもらいたいなぁ、でもめんどくさいなぁ、と思う今日この頃。
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