学内の自主研究会で「乱読会」というのに参加しておるのですが、議論の題材は
この日記でも時折メモしている I.ウォーラーステイン『脱=社会科学―19世紀パラダイムの限界―』を扱ってます。
今回の範囲は第二部「発展の概念」の総括と議論ということで、
先輩の作成したレジュメは少し分量が多くなっています(笑)
中でも、昨日の日記でもメモしてあった第6章「ミュルダールの遺産―ジレンマとしての人種差別と低開発―」が一番刺激的であったという見解を支持してもらえました。
ウォーラーステインは第2部で、従来アプリオリな概念として議論されてきた「発展」というものの見直しを図っております。「発展」概念の検討とは、そもそも発展なるものの存在が自明されていることへの疑問、もっといえば、政治的な中・長期的目標として掲げられた「社会の発展」そのものへの挑戦であります。
産業革命というものが本来想定していた部分をこえて議論されるようになったところから、「発展」という概念は付きまとっています。いったい何が発展して、何が要求され、どのように描かれるのか。「自明性の殻を破る」のは、簡単ではないことを痛感いたしました。
私は日本中世史を勉強しているわけでありますが、視野狭窄的になってはいけないと常々思っております。僕自身、今を生きる人間ですから、自分が生きている時代の自明性を自覚するのはほぼ不可能に等しい。そもそも自明性は、内在化していることに一つの意味がある、とするならば、甘んじて受け入れることもまた、一つの手段であると考えております。
とりあえず、色々な研究会や勉強会に顔を出して、少しでも多くの知的刺激を受け続けたい。2年というのは、自分が成長を実感するにはあまりに短い期間なのでしょう。
この日記でも時折メモしている I.ウォーラーステイン『脱=社会科学―19世紀パラダイムの限界―』を扱ってます。
今回の範囲は第二部「発展の概念」の総括と議論ということで、
先輩の作成したレジュメは少し分量が多くなっています(笑)
中でも、昨日の日記でもメモしてあった第6章「ミュルダールの遺産―ジレンマとしての人種差別と低開発―」が一番刺激的であったという見解を支持してもらえました。
ウォーラーステインは第2部で、従来アプリオリな概念として議論されてきた「発展」というものの見直しを図っております。「発展」概念の検討とは、そもそも発展なるものの存在が自明されていることへの疑問、もっといえば、政治的な中・長期的目標として掲げられた「社会の発展」そのものへの挑戦であります。
産業革命というものが本来想定していた部分をこえて議論されるようになったところから、「発展」という概念は付きまとっています。いったい何が発展して、何が要求され、どのように描かれるのか。「自明性の殻を破る」のは、簡単ではないことを痛感いたしました。
私は日本中世史を勉強しているわけでありますが、視野狭窄的になってはいけないと常々思っております。僕自身、今を生きる人間ですから、自分が生きている時代の自明性を自覚するのはほぼ不可能に等しい。そもそも自明性は、内在化していることに一つの意味がある、とするならば、甘んじて受け入れることもまた、一つの手段であると考えております。
とりあえず、色々な研究会や勉強会に顔を出して、少しでも多くの知的刺激を受け続けたい。2年というのは、自分が成長を実感するにはあまりに短い期間なのでしょう。
コメント
とかいうと怒られそうなので、ちょっと控えめに(笑)
無事に帰ってくることを祈りながら。